※この記事は『インターネットマガジン2005年10月号』(2005年8月29日発売)に掲載されたものです。文中に出てくる社名、サービス名、その他の情報は当時のものです。

[INTERVIEW]
編集工学理論の第一人者
松岡正剛

ブログ、RSS、新検索ツールなどの登場で、インターネットでの情報発信・流通は新しいパラダイムに入ろうとしているように見える。これからの時代においては、膨大な情報から知識を取り出す手法である「編集」という概念が重要になるだろう。日本が誇る知のプロデューサー松岡氏に、情報について、メディアについて、インターネット経済についてなど、さまざまな角度から語っていただいた。

聞き手:本誌編集長
text:柏木 恵子
Photo:渡 徳博


ブログ、RSS、新検索ツールなどの登場で、インターネットでの情報発信・流通は新しいパラダイムに入ろうとしているように見える。これからの時代においては、膨大な情報から知識を取り出す手法である「編集」という概念が重要になるだろう。日本が誇る知のプロデューサー松岡氏に、情報について、メディアについて、インターネット経済についてなど、さまざまな角度から語っていただいた。

情報自身が「乗り物」に乗り、「持ち物」を持ち、「着物」を着替えている

――編集工学的な視点から見たインターネットについてお話を伺いたいと思います。

情報をどう捉えるかは、いろいろな見方があります。1つは「何かがあってそれを情報化している」という捉え方。例えば「暑い夏である」という事実があり、それを情報化する場合に、いろいろな指標によって「34度が続いている」「雨が降っていない」などと指標を換えていく情報化があります。これをAとすると、Bとして「元々ありとあらゆるものが情報から始まっていて、その情報が形を変えて今ここにある」という捉え方がありえます。

私たちの生命は、もともと情報です。情報高分子にDNAが閉じ込められて、コピーが始まり情報生命体としての生物となって、進化して人間となりました。その途絶えたことのない情報生命体が、いま脳や口を持ち直立二足歩行をして、手を上げて書いた文字が情報と考えるのがBの捉え方です。連綿と続いてきた生命情報が、文字やフォントやコンピュータになっているという考え方。現在、この2つが上手に組み合わさっていませんね。

Bでは、最初はノートや鉛筆というものを発明し、それがどんどん進化してコンピュータやマウスにまでなったというように、情報の流れがメディアや道具として外部化したと捉えます。一方、Aの視点では、作られたマウスや鉛筆やノートを使わないと回りにあるものが情報にならないというふうに思える。技術や経済はAの考え方に則していますね。こういう技術ができました、これだけメモリーの量が増えましたというように、次々にゲートを作ってきた。このAとBを混ぜ合わせて考える時期が来ていると思います。

情報と人間との関係を1つのモジュールにしたときに、僕は「乗り物」「持ち物」「着物」という見方をしました。情報自身が乗り物を乗り換え、持ち物を持って、着物を着替えながら進んでいくと見るわけです。この場合は人間ではなく、情報が主語になる。人間が作った乗り物や持ち物や着物ですら、情報が選択しているというふうに見直す時代がきていいのではないでしょうか。

――それは、外部化する技術やツールの発達と無関係ではないですね。

今の時代の情報は、貨幣や金属や土地と同様に大きな財産でありリソースになっています。しかし、情報をどう扱うかは分かっていないと思います。例えば金を保存する場合には形は延べ棒がよいとかパッケージはどうしたらよいとか、ダイヤモンドはカットした方が美しくて価値が上がるとか、そういうノウハウが蓄積されています。しかしリソースとしての情報は、技術やメディアが先行したせいかもしれませんが、人間文化としてどう扱ったらいいかが確立されていません。

例えばコピーについても、どんどん転写されたりしていくと、いったい何が変わるのか変わらないのか、明確ではないですね。大学の先生の講義をノートにとった学生が、そのノートを元に別の人にその内容を伝えたとする。その時に何が省かれているのか、加わっているのか、それでも意味は確実に伝わっているのだろうか、と考えると分からない部分があります。そこには、いわゆる画像の劣化というようなバロメータで測れるものと違う何かがあるはずですよね。さらには、画像が劣化したらそれはダメなのか。網点写真が長らく私たちの視覚情報となっていたように、ひょっとしたら劣化した中にも面白い情報や意味があるかもしれません。

今はあまりにも技術先導型でビジネスもそちらにひっぱられているけれど、もう少し情報の意味とかハンドリングの仕方とか鏡像的な変換の過程に注目すべきです。そこに、面白い編集メソッドも潜んでいるだろうと思える。インターネットはあまりにも急速に拡大したせいで、そのあたりの研究がまだ着手されていませんね。

「情報」が人間に替わって、さまざまなものを1つにする主語になるかも

――ツールが進み過ぎて、中身が見えなくなったということですか。

哲学も音楽も絵画も、今まで人間というものが主語でありすべての問題の中心でした。以前は「神」がそのような大主語でしたが、ある時期からそれが人間に替わりました。情報は、人間に替わって主語になりつつあるというくらい巨大でゆゆしいテーマになりつつあるものです。もしかしたら、今までばらばらに語ってきたさまざまなものを1つにする主語になる可能性を持っているのかもしれません。そのとき、コンテンツとツールを分けて考えるのか、一緒に考えるのかということですね。

――インターネットはデジタルでありさえすれば流通可能なメディアです。つまり、同じ土俵の上に何もかもが並べられるようなインフラだといえますが、いかがでしょうか。

名目的には、すべてイコールで平均的で傾きがないというふうなっているけれど、その中にどんどん粉砕されて小さくなっていくものと、融合して大きくなっていくものがあると思います。今はまだ、インターネットは等質で均質なものと思われているようですが、僕はそうではないと思います。

転写とかコピーというのは、デジタル技術では同じものが複製されると思われています。しかし、意味とか情報の向きや表裏という関係については、まだデジタル技術は手を伸ばしていません。原理的には、デジタル技術には厚みも幅もないが、これはシンタックスの面です。ところが、情報のセマンティクスの面は、ちょっとした影がつくとか人の汗や指紋が残る、ちょっと右よりだということがあるはずです。

ブログの例でいうと、あるブログでいつも同じようなフィードバックループが起こったとします。それが起こりやすいブログがたくさんできて、それをみんなが面白がるとする。そうすると、そこだけをカットして新しい様式が生まれる。そのようなことがありうると思います。

文学の発生は日記から。ブログで起こっていることは小さな出来事ではない

――これまでWebページの作り方を、最近ブログが壊して別の流儀を作っていると思います。それを日記と呼ぶ人もいますが、そう狭い中の話ではなく、そこで個性とか文化の芽みたいなものが出てきているような気がします。

ヨーロッパの文学の発生は、日記か説教の2つをルーツとしています。日本も女房の日記文学から始まりました。だから、いまブログで起こっていることも小さな出来事ではないでしょう。実際の文学の歴史では成立まで数百年かかりましたが、インターネットはどのくらいの新陳代謝能力を持っているか分かりません。ひょっとしたらインターネットの1時間は1年か、10年以上かもしれない。しかし、『土佐日記』がジェンダーをひっくりかえし、「仮名」という決定的フォントを定着させたようなことがブログに起こっているかというと、まだそこまで進んでいません。

――WWWをどうご覧になっていますか。開発者のティム・バーナーズ-リー氏によれば、元々はコラボレーションツールとして作ったが、情報発信の部分だけが突出してはやってしまったので、セマンティックWebを開発しているとのことですが。

共同参照系というのは学術的なニーズから着想されたわけだから、完全に相互レファランスする系として自立するという発想が根底にあるのでしょうね。それが相互発信型に変わっていったのは、学術的な知をあまり深く共有していない人が、その系が持っているものを便利に思うということでしょう。複数の巨大な知が、相互に共同参照できるような仕組みを作るとします。共同で見られるということは、そこから外にも出られるということだから、結局その共同参照系には窓があく。その窓がWebの持っていた窓だったということでしょう。

また、そこにさまざまな知が溜まっていたので、溜めた意味の可能性というものに気づきはじめたのがセマンティックWebです。Webの中の動向というか特徴を持った流れが集まってできた大きな波全体が、意味の塊として特性や文脈を持つ。文脈を持ち始めた波は、波に文脈や用語やテキストが載ったのではなくて、波そのものが文脈であるという状態に達するはずだというのが、セマンティックWebを将来から見た捉え方だと思います。僕は、そういうセマンティックWebにもう一度、書物のメタファーを放り込んだらいいのではないかと考えています。

書物というものが仮に全部電子化されてWebに入ったとすると、電子の言葉になったとはいえ、常に書物というパッケージがかかったものが散ったことになる。書物の中にはチャプターがあり、チャプターの中に中見出しがあるなら、そういうものも残っています。実は僕は、長尾真さんや金子郁容さんや田中譲さんらと組んで、そういうものすべてを受け止めたWebが、かつて持っていた書物とかチャプターとか中見出しというものを結局どうしていくのだろう、という実験に入りました。

――それは、今までのメディア商品はパッケージ化されてきたけれど、パッケージがないときの、という意味ですか。

書物というパッケージ性をうっすら持ったままWeb化するということですね。書物を電子化した電子図書は、パッケージの電子メディア化であり、電子情報であろうがコンテキスト(文脈)はその中に閉じています。そうではなく、うっすらとパッケージがかかっているばらばらなものが、必要な時だけ使えるという状態をWebの中につくっていくんです。

こういうことをするのは、情報がある量に達すると、何かに変わるのかという臨界値の研究が必要です。今は、ハードウェアの制約で障害が起こると思われているけれど、意味上ではどうなるか分かっていません。情報自体がある量に達すると1個1個の意味を離れて別の意味を呈するのかどうかは、人間社会の研究ではプロパガンダとか宣伝とか連呼だとかということでずっと研究されてきました。それが、電子社会では分かっていません。大量な情報を集約しているのはマスメディアであり、これでは恣意的すぎて困るわけです。むしろWebこそが量を質に変えていってほしいと思っています。

マンガのオノマトペイアのようなことが起こってほしい

――本の内容については、読者は介在できませんが、最近の動きとして、読み手が自分の知識の形としてパーソナライズしたり何らかのパッケージにするツールや行為が現れています。読み手側が知識を組織化していくという行為はどう思われますか。

4年ぐらい前に、朝日新聞にノンリニアリーディング(非線形読書)ということを書いたのですが、これは我々が実際に本を読んでいても本の通りに読んでいないということです。本の中の文章とアタマの中の文脈がノンリニアに交差しながら読んでいることのほうが多いのです。また、1章と3章だけとか、この行だけを読んで他の本も読むというように、本をまたぎながら読書している。読書でさえそうですが、そういうことは電子の世界でやった方がもっとうまくできますね。知識を組織化するには、こうしたコンテキストの複合化をもっと起こせるようにするといいでしょう。

もう1つ、Webに期待しているのにまだ起こらないことがあります。マンガで生まれたオノマトペイア(擬音の視覚的な表現)のようなものです。走る前に土煙があがるとかびっくりすると目が飛び出るとか、文学や映画ではやれないことをマンガやアニメがやった。それにあたるものが電子コミュニケーションの中にまだ熟成していないと思うんです。絵文字やフラシュくらいしかない。かつてマンガがまったく新しいものを発見したようなことを、Webにも期待したいですね。

編集なき検索は、検索ではない

――検索と編集には関連性があると思いますが、いかがでしょう。

結論からいえば、編集なき検索は検索ではないと思っています。編集検索にならなければだめです。検索と編集がどう折り合いをつけるかというと、技術開発やアルゴリズムでやっていく場合と、ビジュアライゼーションだけで、インターフェイスを面白くしたり編集的な感覚ができたり、非常に素早いものになったりする場合があると思います。

一般に、編集というと手間をかけているという印象があるようだけれど、僕がいってるエディティングは違います。例えば、突然「ニューヨークに行きました?」といわれた時、その瞬間にニューヨークのあれこれが頭の中に浮かびますね。「ええ、ちょっと住んでたこともあります」「どちらに住まれてたんですか」といったやりとりのうちに、それまでまったくニューヨークというボタンは開いていなかったのに、瞬間的にスポットライトが当たって次の文脈を想定するようになります。3つ4つの質問をかわした瞬間から、記憶データベースの側も編集の方へ起動を始めているし、自分の意思も探りたいものに対しての編集検索の起動を始めています。両側で同時に何かが始まっているときに、編集と編集が掛け算になっているというのが僕の理想で、人間はそうしています。

現在の検索では、これがばらばらに提供されている。まず、たくさんのデータを格納したアーカイブを作ってそこにエンジンをつけ、ピンポイントで高速にマッチングする。マッチング速度を上げるために、レイヤーをつけたりツリーライクにしたりして、データベース側に検索しやすい工夫をする。しかしブラウザー側は、ソフトアイで俯瞰してそれから急激にフォーカスを絞るようなことはできていません。探索機はいつもピンポイントの穿孔性を持っていて、アーカイブ側にいろいろな構造を作ることでうまく入ったように見せかけています。そうではなく、探索機もアーカイブも検索機能が半分編集的になっていって、これがかみ合わさって独自の発見ができるようになることが理想です。一方だけを完成させないで、両方で半分ずつ持ち寄らせて出会うことが、ヒューリスティックであり、人間の感動とか創造性に近いものだろうと思っています。

どんな高度なパターンマッチングでも、人間の検索とは違う

いくらパターンマッチングが高度にできるようになっても、人間的な検索をした感じにはならないでしょう。なぜなら、我々は思い違いとか、期待しないで行って予期せぬものに出会うとか、そういうものが混じって日常生活の検索をしているわけです。パターンマッチングは絶対に必要だけれど、高度になればなるほど、人間の感情とか間違いの余地をなくしていくので、シチュエーショナルなコンテキストを失っていくのです。だから、それ以外の何かを入れておかなければいけないと思います。パターンマッチングでメインの検索目標がピックアップされた周りに、夾雑物としてのサブな情報を残すようなことができれば可能かもしれません。

――GETA(p.102参照)の新書検索のような、入力されたキーワードに関係性が高いと思われるキーワードを示し、それを主軸にしてもう一度検索するアプローチはいかがですか。

高野さんのソフトですね。あれはいいと思います。人間が何かをひらめくのは、1個との出会いではなく関係との出会いなんです。1回だけ当たりという検索ができることが大事なのではなく、次々に連想検索となり、ある思索のイメージ圏に入っていけることが本当の検索の意味でしょう。そう思うと、GETAのような相互関係性を残した検索システムというのは未来性を持っていると思います。でも、そこにはやはり大量のコーパスが控えていて、その「量」が「質」に変わるわけです。問題は、どういうコーパスをどのくらい出入りさせられるかということですね。

――インターネットの情報が無料となり、ある時期から広告モデルでのビジネスが発展しました。このことについては、どう思われますか。

コンテンツと広告とメディアが一体となった、全然別の単位を作らなければいけないでしょうね。ばらばらでかつ枠組み状態がふっとできるようなもの。それはもう広告とは呼べないもの、例えば「コンテンツ・アドバタイジング」のようなものでしょうね。

物というのはすなわち価値で、買うというのは誰かが価値をつけたわけですよね。値段と品質を自分で試して市場価値は成立するけれど、世の中にはあの人がいっているからということで流行る場合もたくさんあります。情報と物の間に人の信頼というか、裏書が加わっていきます。

物々交換、よろず屋とあずま屋、電子貨幣

――インターネットがある世の中で、今後の経済はどうなるとお考えですか。

電子情報経済社会の筋書きはいくつかあって、それが統一されてないと思います。

1つは、物々交換に戻ることです。物々交換には聞き耳をたてる第三者がいます。AさんとBさんが交換している現場を見て聞き耳をたてる第三者のCさんがいて、そういう人がお互いのニーズを聞き出したり工夫を引き出したりして市場を作ってきました。これに近いことを考えると面白いでしょう。つまり、インターネット経済の中に価値を翻訳するエディター機能を入れていくということです。

2つめは、よろず屋とあずま屋のメタファーです。すべてを商うよろず屋のような市場と、特別な人や飽きてしまった人がしばらく時を送るあずま屋のようなものがあるのではないでしょうか。この場合、あずま屋の取引では別の電子マネーやトークンが使えるようにするといい。

3つめは、その電子貨幣とか電子マネーというものに、どの程度の可能性があるかという問題です。僕は、貨幣に賞味期限をつけるとおもしろいと思っています。時間とともに、電子貨幣の価値がだんだん落ちていく。時計入りの電子経済です。

ともかく、電子社会は一様でフラットではいけないと思うんです。もっと柔軟さが必要です。目盛や時計もいくつもあったほうがいい。実社会でも間尺に合わないことはたくさんあります。まったく割の合わないことをしても友情が保てることもあるし、俺は戦っているだけだけれど、見たいなら見ていいよという格闘家もいます。そういうことを、すべて平等なレートに完全に置き換えてはだめでしょう。K-1にトーナメントがあるように、見る方(ユーザー)にもトーナメントがあっていい。今のインターネットは非常にフラットですが、そこを何かで救ってあげたいという気はしますね。

――価値の多様化と、それをバロメートする仕組みですか。

そうです。1つの巨大な電子社会を目指すのではなくて、いくつもの個性とルーツを持った評価市場をつくることです。

ネット社会には、余分なものから生まれるものがまだまだ足りないと思います。余分はたくさんあるのに、そこからの創発がない。余分をゴミにしてはいけません。

――ありがとうございました。

松岡正剛(Matsuoka Seigo)

編集工学研究所所長。1944年京都生まれ。71年、工作舎設立、雑誌『遊』を創刊。超ジャンル的編集と先駆的グラフィズムを次々に生み出し、アート・思想・メディア界に多大な影響を与える。87年、編集工学研究所を設立、文化、経済、デザインなど多方面の研究成果を情報文化技術に発展させる活動を開始。NTTグループのイメージ戦略など数多くのプロジェクトをプロデュースする。ネットの活動としては「千夜千冊」のほか、古今東西の知識情報をつなぐ「図書街」を創るプロジェクトを構想中。また、「ISIS編集学校」を開設するなど、編集工学の教育にも意欲的に取り組んでいる。『情報の歴史を読む』『インターネットストラテジー(共著)』『知の編集工学』など著書多数。(http://www.isis.ne.jp/